--- イエス様と女性たち ---
イエス様は女性を軽視されることはありませんでした。また、女性は家事だけする者とお思いにならなかったようです(マルタとマリアの話を参照)。当時は、女性を相手にして、神学的な話をすることはなかったのですが、イエス様はサマリアの女とその話をなさいました。その上、この評判の悪い女に、ご自分がメシアであると明言さえされました(ヨハネ4章)。
ベタニアのマリアの愛のわざを、福音と同じように宣べ伝える価値があるものとさえ、言われました(マルコ14章9節)。悪い噂が立つという危険性があるにもかかわらず、ガリラヤの女たちを連れて旅をされ、彼女たちをお教えになりました。復活して、最初にお姿をお見せになった相手は女性であったし、その知らせを伝えるようにお命じになったのも女性でした。福音書の中には、イエス様が女性を軽視されたり、そのような言葉を使われるような箇所は、どんなに熱心なフェミニストが捜しても、まったく見当たりません。それにもかかわらず、イエス様は、ひとりの女性も使徒としてお召しになりませんでした。安息日の厳しいルールを破られたイエス様ですから、もし、それを必要と思われたなら、女性を使徒になさったはずです。マグダラのマリアは、イエス様の最後に日に、使徒の誰よりもイエス様に忠実で、そういう意味では使徒に選ばれてもおかしくない人でしたが、イエス様は召されていません。それはなぜでしょう。
--- パウロと女性たち ---
パウロは、ある人たちから女ぎらいと言われています。しかし、そう思う人は、パウロの言葉が神様の言葉でもあるということを忘れています。パウロの手紙を詳しく調べると、この人も女性を尊敬したということがわかります。例えば、ローマ人への手紙の終わりに9人もの女性にあいさつの言葉を送っています。また、ケンクレアの執事フィベを歓迎するようにと、ローマのクリスチャンに頼んでいます。フィベは、女性でありながら、パウロにとって助けになったとさえ書いてあります(ローマ16章)。さらに、ピリピ人への手紙4章で、ユウオデヤとスントケという女性の同労者の名前が出てきます。この女性たちは福音を広めるためにパウロと協力して戦ったとまで書いてありますから、伝道のわざに心から励んだ女性だったのでしょう。
パウロが始めた教会では、女性にいろんな役目があって、教会の前でみ言葉を取り次ぐ役目さえも女性が果たしていました(第一コリント11章5節)。この教会の中には、やもめと年とった女性に、特別なディアコニアの奉仕がありました。アクラの妻プリスキラはパウロの同労者であり、友達でもありました。この女性はまた、すぐれた神学者でもあったようです。というのは、洗礼に関して正しい事をアポロに教えているからです(使徒行伝8章)。
これらのことにもかかわらず、パウロは、女性は夫に従わなければならないことと、教会で教えてはいけないことを強調しています。
新約聖書の中に、次のように(順序が)書いてあります。「神はキリストのかしら、キリストは男のかしら、男は女のかしら」(第一コリント人への手紙11章3節)。クリスチャンはみな互いに従わなくてはなりませんが(エペソ人への手紙5章21節)、男性は女性のかしらとされていますから、女性は特に男性に従わなければなりません。
”かしら”という言葉が使われていますが、これは、神とキリストに上下関係がないのと同じように、男と女の上下関係を決定するものではありません。この場合、日本語では ”従う”ですが、ギリシャ語では、子供が親に従うという意味の
”従う”とは異なるものです(エペソ5章24節と6章1節)。つまり、妻は子供が親に従うように夫に従う必要はありません。妻の ”従う” は、教会がキリストに従うのと同じことです。神が、人を創造なさった時に、男と女を違ったようにお造りになりました。これが、”かしら” の位置を決めています(第一コリント11章8~9節)。
エペソ人への手紙5章で、パウロがこのかしらの位置を教会とキリストの関係に適用しています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」(22~24)。しかし、パウロは「夫はキリストが教会を愛したように、妻を愛さねばならぬ」と続けています。どちらに対する要求のほうが大きいでしょう。
コリント人への手紙の中に、矛盾しているような箇所が出てきます(第一コリント11章5節と第一コリント14章33~34節)。女性が教会で預言することを認めていますが、他方では話をしてはいけないと言っています。預言は、皆さんご存知のように、単に将来に関する話だけではなく ”徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるもの” ですから、教会のメッセージと変わりません(第一コリント14章3節)。同じくパウロは、テモテ人への手紙にこう書いています。「私は、女が教えたり男(ギリシャ語では夫)を支配したりすることを許しません。ただ静かにしていなさい」(第一テモテ2章12節)。パウロはどうしてこのような矛盾したことを言うのでしょうか。さっき書いたことを、もう忘れてしまったのでしょうか。
女性牧師賛成論者は、ふつう、この矛盾する二つのうちの一方を無視します。つまり、神の御言葉の一部は、当時の人だけのために書かれたものである、と言って解決しようとするのです。このように、一部分だけでも聖書の言葉を否定すれば、私たちの教団の今までの聖書観は変わってしまいます。今まで信じてきた聖書の言葉は、最初から最後まで、絶対的な神の言葉であるはずです。否定の道に踏み込めば、どのような御言葉も、相対的なものとして受け取るようになる危険が待っています。北欧には、こういう例が十分あります。女性教師を認めると、次には同性愛の結婚を認めるべきであるという圧力がかけられるのです。それに対するパウロの禁止も、当時だけのものであると考えられていきます。
もし、私たちが、聖書を聖書で解釈しようとするならば、次の結論が出てくると思います。パウロによると、教会の中には教えることに二つの種類があります。そのひとつは女性に許されていますが、もうひとつは許されていません。一方は、かしら(ケファレ)の位置をくずしますが、他方はちがいます。使途の立場と教会のリーダーの立場は、例外なく男性の立場とされていますから、女性がしてはならないと言われていることは、この立場と関係があるように思われます(第一テモテ3章2節)。これまで述べたように、プリスキラのように神学を学んでもいいし、人の前でメッセージをしてもいいのですが、ただ、牧師になって男性を支配し、かしら(ケファレ)の位置をくずしてはいけないと、新約聖書が言っているように思います。教会の教え、恵みの手段の決定権、異端と戦う責任などを最終的に負うのは牧師ですから、男性のやるべきことです。
女性教師反対論者には、二種類あります。高教会と低教会です。この二者は女性の役目に対する考え方が違います。女性は説教をしてはいけないと、高教会が言うのに対し、低教会はそれを許しています。これは、牧師の役目に関する定義が違うだけで、男性だけが牧師になるべきだという基本的な考え方は一致しています。女性が牧師になるかどうかの問題は、決して枝葉末節の事柄ではありません。これは主の命令です。パウロは女性の立場について書いている時、次のように言っているのではないでしょうか。「私があなたがたに書くことが、主の命令であると認めなさい。もし、それを認めないなら、その人は認められません」(第一コリント14章37~38節)。初代教会では、主の命令を破った人は、クリスチャンとして認められませんでした。
(賛成論)ある人々は「パウロの教えはその時代に即したものであって、新約聖書の時代は社会的にみて、女性が教師になるのは無理だった。しかし、今は社会が違ってきているのでなってもいい」と、言います。
(反証)ユッカ・トゥレーン教授(フィンランドの牧師・聖書釈義学者)は指摘しています。当時、ユダヤ人の会堂では、女性たちは絶対に祈ることも話すことも、メッセージをすることも許されていませんでした。一方、他の宗教では、リーダーシップを取る女性がいました。キリスト教は、そのどちらにも即さないで、独立した方式を貫いています。以上のことから女性が牧師にならなかったということは、当時の社会的風習によるものではない、ということがわかります。
(賛成論)聖書の中の文字と御霊を分けるべきだ(文字は殺し、御霊は生かす --- 第二コリント3章6節)。--- 文字の上では(聖書の言葉そのままの意味の上では)、女性は教会の責任者になってはいけませんが、背後にある愛の御霊によって、それは許されています。これは、北欧ではよく使われている賛成論のひとつです。
(反証)ルターの大きな発見のひとつは、聖書はその文字どおりのことが真実である、ということです。文字と御霊を分けて読むと「聖書はОООといっているが、実際はХХХなのだ」と、内容を違ったものにしてしまう危険性があります。そのようにすると「十の戒め」をすべて無意味なものに変えることさえ可能になるわけです。例えば、「姦淫してはならない」という戒めがありますが、これを「本当は~である」と、自分の都合のいいように解釈すればどんなに危険なことか、誰でもわかるでしょう。聖書の文字(御言葉)と御霊を分けると、反律法主義への道へ入り込みやすくなります。
(賛成論)もし、それほど文字通りに受けるなら、旧約聖書の律法、儀式、新約聖書の奴隷制度とかぶりものを、なぜ今のキリスト教会はやめたのですか。
(反証)デンマークの神学者フル−キエル・イェンセンは、聖書の戒めの中で、その当時だけのものとそうでないものを分けるための五つの原則を与えています。
1)本当の戒めか、ただの当時の習慣の描写であるか調べる。
この例としては、初代教会が聖餐式と同時に食事をしたことが描かれていますが「これをしなさい」とは、どこにも書かれていません。このことと違って、女性の立場については、はっきりした戒めが書いてあります。
2)聖書自体が、以前の戒めを無効にするように言っているかどうか調べる。
例えば、へブル人への手紙によると、「旧約聖書のいけにえは要らない」となっています。これと違って、女性の立場に関する戒めは、どこにも取り消されてはいません。
3)条件つきの戒めであるかどうか調べる。
「もし、食べ物が私の兄弟をつまづかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません」(第一コリント8章13節)。
4)決まったグループを対象としているかどうか調べる。
例えば、使途だけに命じられたこと、あるいは、テモテのおなかの調子に対するパウロの助言などです。
5)神の命じられた原則そのものであるか、ただその表し方だけのことであるかを分けること。表し方は変わってもかまいませんが、原則そのものを変えてはいけません。
例えば、クリスチャン同士の口づけや足を洗うことは、兄弟愛の表し方ですから文化によって違ってもかまいません。同じく、かぶりものは結婚しているという印でしたから、今の文化では、結婚指輪になっています。パウロはこのかぶりものを女性の従順(かしらの位置)の印にしましたが、その従順を他の方法で示してもかまいません。
聖書の中には、奴隷制度を肯定する命令は書かれていませんから、女性の立場に関することとは問題が別です。
(賛成論)「行き過ぎたコリントの女性会員に対する暴走抑制の言葉であり「キリスト教は女の味方」とばかり、港湾にも商人都市気質丸出しの女性たちが「男性化し」、集会でもしゃべりまくり、隣席にいる夫と私語をし、金切り声でぶしつけな質問をしたりして、教会が混乱に陥っているとの報告に接した使徒の手紙の一節であった」(小畑進師)。
(反論)これに対する反論はひとつだけです。この言葉はあくまでも第一コリント14章の釈義ではなく、ただの想像に過ぎないということです。
教会に対して、次のイメージがあります。
「キリスト」を上の頂点とし、その下方に「牧師」、「他の教職者」、「長老と執事」、「役員会」、「よく奉仕する人」、そして最下位に「ただ礼拝に出席するだけの人」という順で並ぶ「ピラミッド型」。
このようなイメージが強ければ、女性教職者の立場は難しくなります。牧師の按手を受けなければ、トップの立場になれないからです。教会の中も権力争いの場になってしまいます。
また、教職者とそうでない人との差が、あまりにも開き過ぎるようになります。「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタイ20章26~28節)。
しかしながら、聖書を調べると教会は次のように成り立っています。
「キリスト」を下の頂点とし、その上方に「教会のしもべ」、「教会員」、という順に並ぶ「逆ピラミッド型」。
教会のかしらは、一番大きい責任も重荷も負います。もしかしたら、神は女性をそのような大きな重荷から守るために、その立場に立つことがないように望まれたのかもしれません。例えば、オオカミが羊の群れを襲ってくると、羊飼いは命がけで戦わなければならないのです。女性を戦争に送らないのと同じように、霊的な戦争の最前線に送らないのが神の御心です。例えば、教会員の多くが突然、異端を信じるようになったという時、牧師の力量が試されます。そういう場合にこそ、牧師は男性でなければいけません。教会をいろんな危険から守るのは牧師の責任ですから、女性よりも男性のほうが適しているのです。また、教会が迫害を受けるような時に、矢面に立つのは牧師ですから、女性にとってそのような責任は重過ぎるのではないでしょうか。
女性牧師の問題は、最終的には聖書観の問題ですから、たいへん重要です。御言葉=キリストですから、御言葉に忠実であるということは、キリストに忠実であるのと同じことです。聖書自体が、女性が牧師になることを禁じているとすれば、それにもかかわらず牧師になる女性には何の祝福も約束されていません。神は、聖書の形を無視する形で誰をも指名なさいません。教会成長のために女性を牧師にするという実用主義も間違っています。いくら用いられているような人であっても、聖書の言葉に忠実でなければ、イエス様は最後の日に「私はあなたがたを全然知らない」と宣告するといっておられます(マタイ7章22~23節)。
女性が男性と同じように神学を勉強することは、もちろん差し支えありません。ただ、神学校を卒業してから牧師ではなく他の、女性のために神学的な立場を西日本福音ルーテル教会の中で作らなければいけないと思います(フィンランドで、そういう牧師にならない女性神学者をレクトルと呼びます)。この立場に相当する按手も必要です。女性牧師制度を取り入れた教会のことは、いろんな面で反省材料になります。女性牧師に反対する人は、時間がたつとなくなるということはありません。御言葉の上で妥協したくない人々は、いつまでも女性牧師を認めないし、その説教する礼拝にも出席しません(ルターも、自分の良心のことで妥協してはいけないと、言っています)。女性牧師が説教する時は、別の教会で礼拝を守る人が出てきます。こういうことで、教会の中は非常に複雑になってしまいます。
最後に言いたいのですが、これから女性の立場について討議するときは、愛の精神をもって話し合うことが必要です。意見が違っても、お互いを尊敬しなければ反発し合うだけで終わります。私自身も女性牧師の制度に反対するのですが、牧師になった女性をこれからも隣人愛をもって愛していきたいと思います。
「主の枝」(西日本福音ルーテル教会機関誌)特集・教会における女性の働き1992. 7. No. 190. 9~15頁